くらげ重工業

随想録

20191215 ゲームオーバーの後日談

歳を重ねるごとに意味のあることが書けなくなっていく。全てが日記になっていく。ただ体がものを食べて生きているという事実だけがあり、単にそれしかないなぁと思うようになった。それが洗練なのか老化なのかは分からない。
 
人と、とりとめのない話をしたいと思う。洗濯物を干したとか、昨日何を食べたとか、そういう話を。世界をどう変えたいとか、本質とか真実とか、友人が自殺したとか、そういった真剣な話は、心底どうでもいいと感じるようになった。
 
人と話すとき、相手のためになることや面白いことを言わないといけないというプレッシャーも、なくなっていった。言葉を交わして、その結果分かったり分かられたりすることが、そんなに大事だと思えなくなった。何も分からなくたって関係は続くし、日々も続く。適当なタイミングで頷いて、雑なことを言っていても、私を許容してくれる人たちはいるのだと。今はそのように思う。
 
弱さを克服することに執着するのも、やめた。そんなことをしても良心が麻痺していくだけだから。
 
最近の生活について書く。東京で、人間関係のいざこざがあり、そもそも東京という土地自体も無理すぎたので、京都に帰ってきた。毎日、数千万人の知らない人たちと一緒に、過剰発達した都市で生活するということは、私には向いていないようだった。というか、向いている人なんているのだろうか。私には、耐えられる人がいるだけのように思えた。
引っ越してからは無限に暇で、たくさん眠ったり、花を植えたり、やたら時間のかかる料理をしてみたり、他人のギターを弾いてみたりして過ごしている。それから詩をたくさん書いている。ちょっと賞をもらったりして調子に乗ったりとかも。そうこうしているうちにだんだんお金がなくなっていくし、たまには鬱になったりもする。
 
海で溺れる魚のような生きづらさを抱えている人たちへ、無責任に言いたいことがある。だんだん楽になると、私は思う。執着や、愛の代替物としての呪いや、世界を壊したい気持ちを失う。失うことで楽になっていく。少しずつ。だから少なくとも死ぬことはないだろう。あなたが持っているものは、死ななくても失うことができるのだから。